葬儀や法要で頭を悩ますことの一つが、日取りを決めることです。
よく、法事は友引に行うと死者に引っ張られるとか凶事が重なるから避けるべきと言われますが、浄土真宗では友引に葬儀・法要を行っても差し支えないとされます。
その理由は何でしょうか?
私の経験が皆さんの役に立てばと思い、浄土真宗の葬儀・法要の日取りについての考え方をご紹介します!
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浄土真宗では友引に葬儀・法要を行ってもよい
私は、父の三回忌法要を行うとき、日取りが仕事の都合上どうしても友引に行わざるを得ず、友引に設定して親戚に案内状を送りました。
そうしたところ、あるご年配の親戚の方から連絡があり、友引は死者に引っ張られて縁起が悪いから日取りを改めるように、と注意されました。
どうしたかというと、予定どおり友引の日に三回忌法要をとり行い、何の問題もなくすませることができました。
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先ほどの親戚からの助言のあと、お寺のご住職に日取りについて相談したところ、「なぜダメなのですか、予定通りの日取りで問題ありません」と言われ、その旨を親戚にお伝えし、納得してもらいました。
その親戚の方は曹洞宗の方で、友引の葬儀は控えるべきというお考えがあったようですが、宗派が違うと考え方も違うからと説明し、理解していただいたのです。
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なぜ浄土真宗では友引の葬儀は問題ないと考えるのか?
このように、浄土真宗では友引に葬儀・法要を行っても差し支えないと考えます。
でもなぜ、浄土真宗はこのように考えるのでしょうか?
浄土真宗は、一般的に占いやおまじない、迷信、俗信に惑わされません。このため、昔は神仏に対する儀礼を知らないとして「門徒物知らず」と揶揄されたこともあったようです。
しかし、浄土真宗ではこのことを恥ずべきことと考えません。
むしろ他宗派こそ迷信に惑わされたり形式至上主義におちいっていると考えます。
なぜなら、阿弥陀仏の救いを信じているからこそ迷信や俗信に左右されないのだということを信じているからです。
浄土真宗は、難しい学問や修行などは一切不要で、ただひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも必ず阿弥陀仏の極楽浄土に往生できるという考え方(専修念仏)をします。
また、阿弥陀仏の救いを疑いなく信じ受け入れた時点で浄土への往生が決定するという考えをとっています。
つまり、外見や儀式よりも心の中、内面の心の持ちようが大事なのだという考え方を重視するのです。これが、形式にとらわれないという考え方につながってくるのでしょう。
浄土真宗のこうしたある意味合理的な考え方は、葬儀の日取り以外にも、いたるところに見てとれます。
- 末期の水を行わない
- 死装束をしない
- 清めの塩を行わない
- お盆に迎え火や送り火をしない
- 仏壇に精進棚を作って牛や馬をかたどったキュウリやナスを供えたりしない
- 年賀状を自粛しない
- 仏壇は質素に、基本的には本尊と三具足(みつぐそく、ろうそく立て、花瓶、香炉)さえあればよい
- お墓に卒塔婆や五輪塔を立てない
こうして見ると、浄土真宗はある意味非常に合理的な考え方をとっており、現代社会にマッチした仏教の宗派であると見ることもできると思います。
まとめ
いかがでしたか?
浄土真宗は形式にとらわれない考え方をするため、葬儀・法要の日取りに縁起が悪いなどという考え方をしないということをご紹介しました。
皆さんが仏事を行う際のお役に立てば幸いです!
(関連記事)浄土真宗の四十九日法要はどうすればよい?浄土真宗における法要のつとめかた
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